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夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

時は50年さかのぼる。

高向王(たかむくのおおきみ)は毛人と池辺双槻宮大王(いけのへなみつきのみやのおおきみ)(用明天皇)を父に持つ嶋皇女との間に出来た子であった。
嶋皇女の母石寸名(いしきな)は蘇我馬子の妹である。毛人と皇女はいとこ同士の関係ではあるが、大王の子女はいくら母親の出自に問わず皇子皇女の位がつき、決して豪族や臣下に嫁すことが許されない存在であった。
池辺双槻宮大王がわずか二年の在位で崩御したあと、石寸名親子は蘇我家の庇護を受けていた。年が近く美しい嶋皇女と毛人の関係は、自然の成り行きであったが、嶋皇女は蘇我への中傷を恐れて、生まれた高向王の父親の名を誰にも告げないまま、若くして亡くなった。

高向王は同じ蘇我の流れを汲む高向氏のもとで育てられた。
時が経ち、高向王は快活な青年に成長した。明るく朗らかで見目のよい高向王は宮廷でも人気があった。高向王は自分の立場をよくわきまえていた。毛人が自分の父であることは周知の事実であった。後ろだては、高向氏よりも蘇我氏の方が断然有利である。位階も領地も、蘇我の一言でどうにでもなる時代だ。しかし、高向王は蘇我に対して不用意な願いをすることは決してなかった。
毛人にしてみれば禁忌をおかしてまで成就した恋の忘れ形見である。かなえられる事であれば、なんでもかなえてやりたかった。
しかし蘇我家は依然として馬子が総領であった。馬子にとっては大王位継承から遠い高向王の存在は、蘇我家の荷物でしかなかったのである。毛人は馬子の方針に従うしかない自分のふがいなさにどうしようもない苛立ちを感じていた。

そんな高向王が妻を娶りたいと言ってきた。相手は蘇我の血を幾らかひいているとはいえ、息長系に属する宝姫王(たからのひめぎみ)であった。今の飛鳥板蓋宮大王である。当時、宝姫王は父方から数えても母方から数えても大王の曾孫の代にあたり、宝姫王に子どもが生まれれば、子は王を名乗る事ができない位であった。
高向王の相手としては何の問題もなかった。問題は宝姫王の母、吉備姫王が強固に反対を唱えたことであった。宝姫王には田村王(たむらのおおきみ)との婚姻が約束されていたのだ。
宝姫王は家を出た。宝姫王は本来の勝ち気な性格で、息長を捨て単身で高向王の元に来たのだった。
毛人は高向氏に命じて蘇我家に仕える東漢氏に館を用意させた。高向王と宝姫王のための館で
あった。それが毛人にできる精一杯の親心であった。
二人が暮らし始めてまもなく馬子は田村王に自分の娘を差しだした。後に古人皇子を産む法堤郎女(ほていのいらつめ)である。田村王に対するお詫びと取引であった。力のない王族の姫より、この蘇我が後ろだてになりましょう。そういう意味のものであった。毛人は馬子の計算高さにあきれると同時に、歯がゆさも感じた。大王候補となりうる皇子に蘇我の種を撒く。稲目の代から続いた蘇我の政策であった。そこまで毛人は手を討つことができなかった。いや、考えつかなかった。馬子の強大さに圧倒され、その馬子から蘇我宗家を引き継ぐことに毛人は負担を感じた。

高向王と宝姫王がどういう経緯で知り合ったのかはわからない。だが二人の夫婦仲は睦まじかった。高向王には他に通う女人もおらず、毎日のように宝姫王の館に赴いていた。決して女にもてないわけではない。むしろ縁組みを申し込まれる方が多かった。これは、と思うものを毛人も進めてみたが、高向王は宝姫王以外は眼中にないといったふうであった。
数年後、二人の間に男児が生まれた。宝姫王の世話をしている東漢氏の女が乳母になったことから、(あや)と名付けられた。漢はもはや王名を継げない代である。周囲からは敬称をこめて漢人(あやひと)と呼はれた。
時を同じくして、毛人にも待望の男児が生まれた。蘇我宗家を継ぐべき大郎、鞍作(くらつくり)である。

漢と鞍作が生まれた翌年、大陸の随が滅び、唐がたった。
その知らせは三ヶ月遅れで大和に届き、朝廷に大きな動揺をもたらした。大国の随がたった二代で滅びるなど考えもしなかったことであった。今後の三韓の動きや倭国に対する唐の政策。半島の任那の存続。参議では誰もが興奮して言葉を発したが、それらはすでに伝えられた事柄ばかりであった。唐がいかなる組織なのかさえはっきりしたことは誰にもわからなかった。が、時が経つにつれ、高句麗に向けた度重なる巨万の出兵が人々を疲労させ、臣下の一人李族に討たれたと判った。
大陸の政権交替は突然の嵐のように起こる。倭国のように代々大王の血統性を重視する世襲ではなく、時に異なる氏族、又は異なる民族が前の宗主を倒して政権を樹立する。力と徳のある人物が、天から位を頂き天子となるのだ。
神々の子孫たる大王家が現人神となって民を治める倭国。隋や唐の建国は、倭国の国の成り立ちを揺るがす事件でもあった。

大陸のような世襲が起こる事を恐れた厩戸皇子は、蘇我馬子と共に国史の編纂を始めた。蘇我家などの有力豪族にとっても大王家は必要であった。大王家あっての豪族である。国史は大王家の正統性を神話に置き換えて広める大きな役割をもつであろう。今までそうであったように、これからも国を治めるのは神々の子孫である大王家以外であってはならない。大王の地位を揺るぎ無いものにする。国史編纂にはそんな意味が込められていた。
しかし、国史編纂を始めた二年後、厩戸皇子が薨じた。まだ四十九歳の若さであった。
朝廷の受けた衝撃は大きかった。
小墾田宮大王(推古天皇)は高齢に達している。大王亡き後は厩戸皇子が大王位を継ぐ事を、誰もが信じて疑わなかったのである。
次の後継者を誰とするか。
馬子は自分の孫であり、厩戸皇子の長子である山背王(やましろのおおきみ)を大兄に就かせた。
少々強引なやり方でもあった。当の本人の山背王は斑鳩の宮をほとんど出る事がない。いったい山背王がどれほどの人物であるのかを知るものは少なかった。が、多くの臣下たちは厩戸皇子の偉功を継ぐものとして、山背王の大兄に賛同した。




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