夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 ポチっとお願いします→
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
鏡王の(やしき)は鏡山の麓の淡海湖畔に面した位置に構えている。
湖畔から鏡山周辺は肥沃な田畑が広がり、わずかながらにも豊かな実りをもたらしている。この肥沃な田畑と、そして神鏡の鋳造が鏡王の領地の主な財政を賄っていた。また鏡王が父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)から譲り受けた日野川周辺の蒲生野は禁猟である紫草の生地でもあった。
淡海周辺は息長系氏族の領地である。古くから大王と婚姻関係を結んで勢力を伸長した息長氏族だが、王位を望むべく皇子が少なかった。押坂彦人大兄皇子は訳語田宮大王(おさだのみやのおおきみ)(敏達天皇)と息長広姫(ひろひめ)との間に生まれた皇子であるが、大兄を称していたにも関わらず、大王になることもないまま病死した。その頃、多くの大王を輩出した蘇我氏による独占的な政治が行われていたのである。
巻き返しを図る息長系の動きは、蘇我系の小墾田宮大王(おはるだのみやのおおきみ)(推古天皇)が老齢に達し、執政を行っていた厩戸皇子(聖徳太子)と大臣蘇我馬子が相次いで亡くなった頃から次第に現れてきた。押坂彦人大兄皇子の嫡子田村王(たむらのおおきみ)の大王への擁立に乗りだしたのである。田村王は茅淳王や鏡王に継ぐ押坂彦人大兄皇子の第三子だが、皇女を母に持つ王家の嫡流であった。茅淳王や鏡王とは違い、飛鳥の都で養育された純血種である。しかも蘇我系の血が混ざっていない。息長系にとってはどんな事をしてでも就かせたい大王候補だった。
田村皇子に対抗するのは厩戸皇子の第一子、山背大兄王であった。強硬な外交と平定した国内政策で群臣を心服させた厩戸皇子を父に持ち、強大な権勢を誇った蘇我馬子の娘を母に持つ山背大兄王は、大王家に匹敵する上宮王家を受け継ぎ、早くから大兄を名乗っていた。名声と財力と後ろだての蘇我家をもつ山背大兄王は次期大王の筆頭候補であったのだ。
小墾田宮大王崩御の後、大王位についたのは田村王であった。
蘇我馬子亡きあと蘇我宗家と大臣職を継いだ蘇我毛人が、叔父である境部摩理勢(さかいべのまりせ)を倒してまで田村王を推したのだ。
誰もが蘇我毛人の行動を不可解に思った。田村王よりも山背大兄王のほうが蘇我家にとって有利のはずだった。蘇我宗家を摩理勢に乗っ取られるのを阻止したためとか、田村王と蘇我毛人の妹との間に生まれた古人を大兄に立てるためだとか、様々な憶測が流れたが、毛人はその点に関しては硬く口を閉ざしたままであった。

田村王は即位して岡本宮大王(おかもとのみやのおおきみ)となり、尊称は皇子に変わった。大后は茅淳王の娘、宝姫王。尊称は皇女となる。息長系の大王家が生まれ、息長系氏族が蘇我家に並び、再び台頭を現し始めたのである。
岡本宮大王は十三年の治世を終えて崩御した。
そして宝皇女が即位し、二番目の女帝となって今日に至っている。
鏡王にとって、宝皇女は姪であり、また亡き妻三上姫の異母姉でもある。三上姫は鏡の里に隣接する安氏の娘と同母兄茅淳王の間に生まれた姫であった。
その息長系氏族は淡海をぐるりと取り囲むよう分布している。湖東北は本家息長氏、湖南西は和邇(わに)、湖南に(やす)氏と鏡王の所領が位置する。安氏は和邇の日子坐と息長水依姫との間に生まれた瑞穂真若王を祖とする氏族で、三上山を御神山と仰ぎ、息長水依姫の父、天之御影神を祭った御上神社をたてている。鏡姫王の母三上姫はこの御上神社の巫女を務めていた。
鏡王の所領はその安氏の東隣にある。鏡山の真北には、宮中の祭祀に使用される鏡の戯れを払い、使用された後にまた奉納する鏡神社がある。今は鏡姫王が奉納の儀を行っているが、かつては巫女時代の三上姫も行っていた。
淡海周辺は、安氏や鏡王のように同族どうしの婚姻を重ね息長系氏族が結束を固めた土地であった。

その淡海に都を遷す。

鏡王が言葉を無くしたのも無理はない。
これが飛鳥にも領地を持つ息長系春日氏や小野氏から出た話なら頷けもする。実現するかどうかはともかく、息長系氏族にとっては夢のような計画である。他の豪族が入り込む隙間がないほど、淡海周辺は結束しているのだ。大王家を完全に掌握できる。
だがこの話を持ってきたのは、息長系の人間ではなかった。



ひとくちメモ [鏡王について]


額田王の出自は定かではありません。
鏡王の女(むすめ)とされていますが、その鏡王も、いったいどこの誰だか分からないというのが学説となっています。

ただ、地名をたどると滋賀県の南、現在の竜王町の鏡にいたのではないかという説が有力です。
実際、竜王町の真照寺には「鏡王が額田姫王の父で、鏡神社の神官であった」と伝えられています。
ただ、この伝承には続きがあり、ちょっと首をかしげる話もあるので、私個人としては信じたいけど「ホントかナー」と思うところでもあります。これはいずれまた改めて。

鏡という場所には鏡神社が実在します。
この鏡神社の祭神は新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)で、彼はこの地が精銅に向いていると、人々に精銅法を教え広め人です。
隣の安(現在の野洲)では銅鐸の製造がさかんに行われたのに対し、この鏡では銅鏡の製造が行われと考えるべきでしょう。
安氏と鏡里は精銅繋がりがあるわけです。

この物語では鏡王は王族でなければなりません。
で、いったい誰とつなげれば自然な設定だろうか…。

ここは精銅つながりを利用しました。

(話は長くなります)
日本書紀の舒明天皇記にこういう記があります。
「大派皇子と言う人物が時の大臣蘇我蝦夷に「朝参に遅刻するものが多いので、鐘をならして時を知らせたらどうだろうか」と提案するが、簡単に却下されてしまう」というものです。
大化三年には朝参は日の出とともに始まり、正午に終わると定められていますので、舒明天皇時も似たような時間帯だったと考えます。
静まり返った飛鳥の里に鳴り響く鐘を大派皇子はどのように考えていたのでしょうか。
大派皇子は敏達天皇を父に持ち、春日氏の娘を母に持ちます。(春日氏は本拠地を今の飛鳥に移した息長系の氏族)
大派皇子は、廃れていった銅鐸の存在をもう一度復活させようとしてこの提案をしたのではないでしょうか。

野洲の銅鐸博物館には世界最大の銅鐸(復元)が展示されています。何のためにこんな大きな銅鐸が造られたのか不明なのですが、もし、これが時を知らせる鐘と考えられていたのなら…。
飛鳥の里全体に聞こえさせるぐらいに設置には、いったいいくつの銅鐸が必要なのか想像もつきませんが、実現したらこの銅鐸産地における重要な財源になったかもしれません。
蘇我蝦夷が却下したのは、当然息長の財源を潤すようなことを認められなかったからでしょう。

と、こんな想像から大派皇子は安(野洲)に繋がりのある人物だったと想定します。
そして、もうひとり同じ名をもつ女性がいます。
大俣女王。
皇極天皇(宝皇女)の父茅淳王の母親で、押坂彦人大兄皇子の妃です。
この人も出自がまったく分かりません。漢王という兄がいたことぐらいでしょうか。
名が同じということから、この人も安に縁がある王族と考えると、鏡王との繋がりもあってもおかしくありません。

ということで、鏡王は押坂彦人大兄皇子と大俣女王の第2子で、茅淳王の弟という設定にしました。
(長い話ですいません)



スポンサーサイト
 ポチっとお願いします→

やっぱり印刷して読まないと頭に入りません。人物の名前が最初から多いとこんがらがります。
せめて系統図だけでも印刷して、横に置いて読むべきだったでしょうか。

2007.05.02 15:57 URL | 一九 #- [ 編集 ]

一九さん、こんにちは!

人の名前が多いし、しかも長いしで、読むのも一苦労されていると思います。
もっと整理出来ればいいのですが…。
でもこの辺は読み飛ばしてもらっても問題ないところです。(だったら書くな、と言いたいですよね)
作者の自己満足ということでご容赦ください。

2007.05.04 11:12 URL | 武久縞 #- [ 編集 ]













管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://yumenohazama.blog69.fc2.com/tb.php/130-065aad48

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。