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夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

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鏡は布由に促されるままに宮を出た。
日差しがまぶしい日であった。初夏の緑が匂い立つようであった。
「お暑うございませんか。領巾(ひれ)を用意いたしましょうか」
布由が先を行く鏡に声をかける。
「必要ないわ」
確かに暑いが、どうしてか今は陽の光を浴びたい気がした。陽の光の中へ歩いていく。

前方から馬に乗った者がこちらに向かってくるのを、鏡も布由も見つけた。布由がそっと鏡の前に立つ。
「林臣様」
近づいてくる人物の名を、布由がつぶやいた。
「宮に上がっておられたのか」
鞍作は馬から下りて手綱を引きながら太く響く声で言った。
「今、鏡姫王の屋敷に桃を届けたところだ。甘くて美味い。桃は長寿の素と言うが、本当なら是非鏡姫王にめしあがってもらいたい」
朗らかな笑みであった。梅雨が明けてまだ間もないというのに、鞍作の顔はすでに日に焼けていた。
「困ります」
そう言ったのは布由だった。
「困るとは?」
「そのような貴重な果実を、大王への贈り物ならともかく、姫王は大王に仕える巫女でございますのに」
これ以上近づかれては、鏡姫王にその気がなくともあらぬ噂が立てられる。そう言いたいところだったが、布由ははっきりと言うことができなかった。
「大王には既に届けてある。案ずることはない」
鞍作は布由に笑顔で答えた後、鏡に向かって言った。
「鏡姫王は桃はお好きか?」
その問いに鏡は答えかねた。答がないのを勘違いしたのか、鞍作はさらに言った。
「何がお好きかな。他の果実では? 果実が嫌いなら花か。それとも玉がいいか。鮮やかな衣はどうか?」
何が好きかと言われても、鏡はただ困惑するだけだった。
花は、ただそこにあるものとしてでしか受け入れたことはなく、玉も形や光沢や色が優れたものが高価なのであり、それが美しいという意味だと思っていた。衣も同じで、食に限っては何であろうと腹を満たすだけで他の意味を考えたこともなかった。人々が言うから美しいのであり、美味いのであって、鏡は特段それらを好きとも嫌いとも判断したことはなかった。

なぜだろう。鞍作に聞かれると、今までの自分感覚が奇異なものに思えてくる。花は花だから美しいのではないか? それがどうして好き嫌いに結びつく?

「なぜそのようなことを」
鞍作への答の代わりに、鏡はそれだけ言った。すると鞍作は笑って
「決まっている。姫王の喜ぶ顔が見たいからだ」
と言った。
「ものを好き嫌いでみたことはございません。どうぞおかまい下さいませんよう」
鏡はそう言って鞍作の横を通り過ぎた。一瞬、鞍作の顔に落胆の表情が走るのが見えた。鏡の心の奥がキリっと音をたてたように感じた。
「鏡様」
布由が後を追いかけてくる。
「お礼も言わずに来てしまいましたわ。せっかくめったに口にすることがない桃を戴いたというのに」
布由の口調にはどこか鏡を非難する感が含まれていた。
「額田が待っているわ。早くしましょう」
鏡は布由をたしなめるように歩調を早めた。

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雨の季節が去り、空に青空が広がった。
豊作を願う行事があり、鏡姫王は祭壇に苗を捧げた。
「今年の天候はどうか」
大王宝皇女は人払いをさせたあと鏡と向き合い、そっと小声で聞いた。
鏡は心の中で困惑する。
「今のところこれといった卦は出ておりませぬが…、わたくしが未熟であるが故に神の声が聞こえぬのかもしれません」
「神の声…。そう。たしかにあの雨は神の救いだった。神の声が聞こえぬということは、今はその必要がないということかもしれない。そなたが未熟であるわけではないでしょう」
あの雨とは二年前の雨乞いの雨のことである。
二年前、宝皇女が即位した年、十三歳であった鏡は、深刻な表情の宝に告げた。「十日後に雨は降る」と。幼い頃からの鏡の能力を知っていた宝皇女は、これを利用しない手はないと考えた。その日に合わせて雨乞いを行い、果たして鏡の予言通りに雨は降った。そのような政事の表の事情は鏡にはわからない。鏡はただ、見えたものを背の君である宝皇女に告げたにすぎなかった。
鏡には物事の予見が本当に神によるものであるのかはわからない。しかし、自分に与えられたこの不思議な力を説明するには、やはり神の名を使うより方法がなかった。今年の天候はどうかと宝は聞いたが、それは豊作かという問いであることを承知していた。雨の降る日をあてることはできても、季節を通じて毎日の天候を今ここで予測することはできないし、仮に出来たとしてもそれが果たして豊作に繋がるかどうかなど農民ではない鏡には判断できないことであった。
「そういえば、額田部が都にも居を構えたと聞く。そなたの妹も参るのでしょう?」
宝皇女は話題を変えた。鏡に対して詫びるような変え方だった。
「はい。昨日知らせがありまして、本日、額田はわたくしの館にも来ることになっております」
「そう。そなたも妹に会うのは久しぶりのこと。今日はもう良い。はやく帰って迎えておやりなさい」
まるで自分が妹を迎えるかのように、大王宝皇女の顔はほころんだ。
「額田には赤ん坊のころに会ったきり。今はいくつに?」
「十になりました」
「そう。愛らしくなったことでしょう。一度この宮につれてまいるように」
宝皇女の笑顔につられて、自然に鏡の口元も笑んだ。成長するにつれて花のように美しくなっていく妹の額田は、鏡にとって大切な存在であった。

大王の座を辞して、控えていた侍女の布由と共に宮を出る時、鏡はふと公達の輪に目を向けた。
「鏡姫様?」
布由に呼ばれて自分が公達に目を向けていたことに気がつく。自分は何をしていたのだろう。知らずの間に探していたのかも知れない。
宮にあがるといつも蘇我林臣が自分に声を掛けてきていた。鞍作と何の話をするわけでもない。ただ今日は雨が降りそうだ。輿は領巾(ひれ)を用意した方がいいとか、蜜がとれたので後で届けさせるとかいった、短いものであった。そのたびに鏡は軽く会釈し、そしてそのようなお心遣いは無用だと答える。実際そうした扱いを鞍作から受ける理由もなかった。
しかし鞍作は笑って「自分がそうしたいだけだ。気にしないでもらいたい」と立ち去っていく。
鏡自身は気にはしていない。うれしいとも迷惑とも思ってはいなかった。だが鞍作の声は、そんな鏡の心を知った上で逆手にとっているようで、鏡には不思議な存在だった。その鞍作の姿が、今日はなかった。
「姫様。妹君が先に屋敷に着かれてしまいます。お急ぎになりませんと」
布由は鏡を促す。布由にとっては鞍作の姿がないことは幸いであった。悪い人柄ではないことは感じていた。鏡姫王を利用して鏡王を自派に取り込もうだとか、大王に近づこうだとか、そんな姑息な事を考えるような人物では無いと思う。しかし宮中というところは、常に陰謀が渦巻いている。誰が何を考えているかは、事が起こってからではないとわからない。布由は鏡姫王だけはそんな渦に巻き込ませたくはなかった。巫女である立場の鏡の名を汚す要因は、避けなければならなかった。

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中臣鎌子(なかとみのかまこ)は手にした蔵書の束の重さを感じていた。神祇伯(じんぎはく)の任命を再三固辞した鎌子には、以来大した仕事は回ってこない。今も飛鳥寺から借用した唐の文献を戻しにいくところである。
神祇伯(じんぎはく)とは、国の祭礼を司り、諸国の官社を総括する大役である。誰にでもなれるものではない。古くから宮の祭祀を担ってきた中臣家であり、また大王に仕える巫女たちを総括し、宮中の祭事を司る大伴家を叔父にもつ鎌子だからこそ任命されたのである。しかし鎌子は神祇伯を受ける気にはなれなかった。名誉な役職ではあるが、それは政事から離れることでもあった。倭国ではもはや神事と政事は離れた位置にあった。理由はそれだけではなかったが、鎌子は固辞の理由を他に告げることはなかった。

寺の管理者に礼を述べて文献を返還したあと、鎌子は伽藍を回りながら考えていた。
大陸の文化を取り入れるには、仏教を学ぶことが一番の早道だ。大陸には大陸で、古来より道教があるが、新しい思想は仏教にかなわないだろう。倭国に仏教を取り入れた蘇我稲目、馬子の先見の目には、鎌子は心服するしかない。しかもこの飛鳥寺の造り。さすがに最新の文献を貯蔵するだけある。一見開放的に見えても、塀の高さや門の配置など、他の侵入を防ぐよう設計されている。伽藍に通じる広い庭。ため池。見張り台にもなる塔。宮に比べたらずっと飛鳥寺の方が要塞として役にたつ。馬子という人物は何を考えてこれを造ったのだろう。

と、陽気な声が鎌子の耳に届いた。
寺の庭で、貴族の子弟たちが蹴鞠をしていた。これも大陸からもたらされた遊びである。飛鳥寺はその豊富な知識をもとに、貴族の子弟たちのため、学堂を開いていた。ここに通う子弟たちが、休みの時間に遊戯をしているのだ。
旻の学堂に通っていた頃を思い出す。鎌子にはこのように人の輪の中に入ることが苦手であった。反対にいつも人の中心にいた人物がいた。
蘇我大郎鞍作。
遠い存在であった蘇我家をの跡取り。だがなんの気まぐれか、話しかけてきたのは鞍作が先だった。

鎌子はその場所から遠ざかろうと足を速めたが、ふと、槻の樹の下で蹴鞠を見ている男に気がついた。まだ少年と言っていいほど線の細い、色の白い公達であった。
葛城皇子(かつらぎのみこ)…」
大王宝皇女と先帝田村皇子の長子、葛城皇子。また、古人皇子と大海人皇子の間にあることから中皇子(なかのみこ)と呼ばれる皇子である。
葛城皇子は、蹴鞠をしている子弟達に冷ややかな視線を向けていた。
その視線が、一瞬にして鎌子に移った。
獲物を見つけた獣のような皇子の瞳に射貫かれ、鎌子は一瞬身動きがとれなかった
気がつくと鎌子は吸い付けられるように、葛城皇子の方へと歩み寄っていた。二歩手前で頭を下げる。この皇子と言葉を交わすのは初めてであったが、鎌子は自ら言葉をかけていた。
「皇子様はなさらぬのですか」
瞳の端だけ蹴鞠の方へ動かす。
「くだらぬ」
冷ややかな声であった。 
「あれが一体何の役にたつというのだ。そういうおまえはやらぬのか」
十八歳の若さだというのに、葛城の物言いは大人びていた。
「わたしは運動と名の付くものは苦手でございますので」
「うたは詠むか」
「うたも苦手でございます」
「ではいったい何が得意だ」
「未だ得意といえるものは」
葛城皇子は鎌子の顔を改めて見た。宮中では目立たないこの鎌子の表情は何を考えているのかわからない。
「神祇伯を断ったそうだな」
「任が重すぎます」
「旻の学堂に通っていたとか。学問は好きか」
「好き嫌いの問題ではありません。学ばねばならぬ事が多すぎます」
「謙虚だな。それに博識と聞く。南淵(みなみぶち)請安(しょうあん)も学堂を開くそうだ。興味はあるか」
「必要とあらば」
鎌子がそう答えた時、伏せた目にも葛城皇子が笑ったのがわかった。
「今さっき学ばねばならぬと言ったであろう」
冷ややかな笑み。鎌子は全身が一瞬硬直するのを感じた。見た目の印象とは違い、なんと抗いがたい力を秘めているのだろう。
「吾が必要とする。おまえの知を吾のために使え」
気がつくと、鎌子は葛城皇子に深く頭を下げていた。



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