夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

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小墾田宮大王の葬儀を行い、殯宮(もがりのみや)に女帝を移したあと、毛人は境部摩理勢(さかいべのまりせ)に呼ばれた。

「毛人、山背大兄にしろ」
腰を下ろす間もなく摩理勢は毛人に言った。脅迫に近い言葉であった。
「それは参議にて決める事でしょう。亡き大王のお言葉もあります。叔父上と私で決める事ではないはず」
「蘇我として言っている。あおじろい田村なんぞに何ができる」
田村王は肌が白く、麗美な顔立ちをしていた。争い事は好まずと言った容姿であり、事実政事はもとより、絵や笛や詩をもたしなむ。それをあおじろいと言うならば、山背大兄王はだだをこねる幼児だ、と毛人は思った。 
「蘇我の将来を思ってのことだ。山背を推せ」
「蘇我の将来を思って言って下さるのはありがたいことですが、叔父上、蘇我の総領は私です。蘇我の事に口出しは無用に願います」
先の馬子の墳墓建設をめぐる諍いを含めて言った言葉であった。

摩理勢は助言をあたえたこととして、この先も毛人を御していこうと考えたのだ。山背大兄王が立ったとき、毛人にかわって大臣の位を授かる約束ごとをすでにかわしていた。そしてあわよくば、蘇我家自体も手中にしようとしていたのだ。
それくらいのことは毛人にも読めていた。馬子ほどの策略もない単純なこの叔父は、きっぱりはねつけることで怒りに我を忘れるだろう。そうして自滅するがいい。

案の定、先の言葉に摩理勢は真っ赤になって憤怒した。
「なに様のつもりだ、毛人。わしにさからうのか、このひよっこが」
「逆らうなどとんでもない。もともと私が叔父上に命令される筋合いはないのです」
毛人は席を立った。怒り狂う摩理勢は毛人を睨みつけていたが、ふとずる賢い笑みを浮かべた。
「鞍作はどうしている。まだ口がきけぬか」
なぜ急に話題が鞍作の事になるのか。毛人は眉をしかめて摩理勢を見た。摩理勢はまだ笑っている。
「残念であったな。おまえも運がない。生き残ったのが漢人であれば良かったものを」
毛人は眉をしかめたまま、屋敷を出た。
動揺を悟られなかっただろうか。摩理勢は蘇我の跡継ぎをただ中傷しただけではなかった。
摩理勢をこのままにはしておけない。
毛人は舎人と供に馬を走らせた。

参議において、毛人は群臣達に亡き小墾田宮大王の遺言がいかなる意味をもつのかと、それぞれに意見を聞いた。
あるものは田村王を有利に言い、またあるものは山背大兄王を有利に言った。そしてそのほかの大部分はなんとも言えなかった。参議の長である毛人は蘇我総領であり、当然山背大兄王を推すものと思っていた。ほとんどの者がどちらにつけばいいのか決めかねていたし、また毛人が大臣である以上、山背大兄王がたつだろうと思われたのだ。

参議は幾日もかけて行われた。山背大兄王を強行に推したのは境部摩理勢であった。しかし、毛人はその意見を、ひとつの意見以上には扱わなかった。
息長系氏族はどうしたことか、あまり表だって意見を言わなかった。この参議でうるさいのは、摩理勢ただひとりであった。
「豊浦どの、そろそろもがりも終わります。はように決めなければ」
安倍氏が毛人に耳打ちする。
毛人は時を待っていた。長引く参議でいらついた摩理勢が仕掛けてくるのを。

境部が兵を集めて豊浦に押し寄せたのは、まもなくのことであった。
急襲をかけたつもりの摩理勢であったが、それを待ち望んでいた蘇我の兵の周到な準備にあっけなく破れた。摩理勢は老齢にも負けず刃を持って戦陣に立っていたが、それが仇で、強弓に胸を貫かれ、死んだ。ほんの一日の出来事であった。
翌日の参議にはすでに毛人は顔を出していた。昨日の事が嘘のようにいつもとかわらぬ表情であった。参議を始める前に毛人が言った。
「昨日の事、お騒がせいたしました。これは一族の問題であり、また大王不在の今は、不問に処していただきたい」
誰も何も言えなかった。それほど今までとは違う毛人のありようであった。このとき初めて毛人は蘇我家総領の地位を固めたと言って良かった。

摩理勢がいなくなった参議は順調に進んだ。高名な僧や学者が呼ばれ、遺言の検証を改めて行った。田村王(たむらのおおきみ)に残した言葉が時期大王を指すとの結果だった。
異を唱える者もいたが、毛人はたった一言で制した。

(みことのり)である」

大王の詔はどの言葉よりも重い。まして遺詔である。群臣達の息の飲む声が聞こえた。と同時に波が引くように、田村王に皆がひれ伏した。

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何気なく再開してしましたが、長い間更新もせず、申し訳ありませんでした。

当方、子猫を拾いまして、里親が見つかるまでの1ヶ月ちょっと、ほとんど猫にかかり切り状態。

我が家に先住の猫二匹もストレスが最高潮に達し、家の中はもう家庭崩壊寸前の有様。

こんな時におちついて小説を書けるワケもなく(というよりパソコンあけるやいなや、先住猫のオシッコ攻撃が始まるもので)

おかげさまで四匹いた子猫は全て猫好きの方にもらわれていきました。

やれやれ。

内緒にしていたわけではありませんが、私、このブログの他に三年前から別のブログも立ち上げており、猫騒動の話は、そちらに(会社から)記事投稿しておりました。 
日々の事や同居猫、ドラマ視聴の感想を綴ったバカ騒ぎブログです。私の書く小説と私のおバカな日々は接点を持たせたくなかったのですが、そのうちリンクもしようかと思っています。 
…しないかもしれません。


何はともあれ、とにかくこれからも 「夢のはざま」をどうかよろしくお願い申し上げます。


武久縞




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馬子没後、目に見えて衰弱していた小墾田宮大王(おはるだのみやのおおきみ)(推古天皇)は、たびたび大臣蘇我毛人を呼んで先の行方を案じた。

中継ぎのはずであった小墾田宮大王は思いのほか長く生き、自分の息子の竹田皇子、訳語田宮大王の長子押坂彦人大兄皇子、執政の厩戸皇子等、後継者であった者達を次々に亡くした。小墾田宮大王の子の代の有力な皇子たちに大王を託すことが出来なかったのである。小墾田宮大王の失意は、馬子を失ってさらに追い打ちをかけられていた。しかし時期大王を決めなければいけない。これが女帝の最後の為すべき仕事であった。

「斑鳩はどうしている」
大兄を称している山背王の宮の様子を小墾田宮大王は聞いた。
「相も変わらずといったところでございます」
毛人は淡々と答える。毛人にとって山背大兄王は同母妹の息子、血の濃い甥に当たる。妹の刀自古(とじこ)は既に世にはいない。確かに厩戸皇子の長子であるだけに知名度はあったが、毛人はこの甥をそれほど買ってはいなかった。逆に馬子に言わせれば大王に才や力などはないほうが御しやすい。しかも父厩戸皇子は民まで名が知れ渡っている。山背大兄王はその点では蘇我にとってこれ以上ない大王候補であった。

「相変わらず外には出ず、言いたい事をいっておるのか」
それには答えずに、毛人は頭を下げた。
山背大兄王は朝参にも出ず、斑鳩の宮に兄妹や妻子と共に過ごしている。山背大兄王の言葉は異母妹であり正妻でもある舂米女王(つきしねのおおきみ)の祖父、膳部氏によって伝えられた。それらは実際に政事には関係の無いことばかりで、正直なところ、毛人も小墾田宮大王も山背大兄王にはうんざりしていた。山背大兄王は偉大な父の庇護のもとに育てられ、廻りからちやほやされた世間知らずの貴公子だった。

山背大兄王を可とも否とも言葉にしない毛人の態度は、小墾田宮大王にはやっかいなものだった。何を考えているのか掴みきれなかった。馬子は思った事を押し進める強引さがあり、多少の反発はあったものの、馬子や厩戸皇子のやることに大王としての不都合はなかった。安心しきってもいた。彼らと比べると、毛人はどこか頼りげなであり、大臣である毛人がはっきりと言葉にしない分、全ての決断を大王である自分がしなければならないようでもあった。  
高齢で衰弱していた小墾田宮大王には大きな負担であった。

「その点、田村は何かと人望を集めているそうな」
「宝姫王を娶った事で、また人気を得ました。夫を無くした宝姫王を娶りいたわる姿が、過去にこだわらない心の深いお方だと」
「ふむ…」
小墾田宮大王は扇で緩やかな風を自分に送った。それさえも億劫そうであった。
「さて、どうするかのう…」

小墾田宮大王は自分の死期が近いと悟ったころ、病床に田村王を呼び、継いで山背大兄王を呼んだ。
田村王には「大王の位は大任である。充分慎んで察らかにせよ」と言葉をかけ、山背大兄王には「汝は心が未熟である。必ず群臣の言葉を聞いて従え」と言葉をかけた。曖昧な言葉であった。取りようによってはどちらが大王になってもいいようであった。

群臣達は揺れた。この先どちらにつけば自分達が有利なのか。
田村王が先に呼ばれたのは、田村の方が山背より七歳ほど年上であったからだ。壮年の三十六歳、人格の評判も田村の方が勝っていた。小墾田宮大王は若い山背にもっと人望をあつめるよう諭したに違いない。毛人がそれを一番良く知っていた。
しかし当の山背大兄王は女帝の言葉を過大に解釈して吹聴した。自分が大王になるのだと信じて疑わない様子であった。それをあおったのが毛人の叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)であった。山背大兄王はあせっていた。蘇我総領の毛人が上宮王家から離れている事を感じとっていた。蘇我に守られての山背大兄王である。蘇我が手を引けば大王になれない事は明白であった。この際味方は多い方がいい。山背大兄王は摩理勢に傾倒しつつあった。

その年の春 小墾田宮大王崩御。

歳七十五。三十五年の長きに渡る在位であった。

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