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夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

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宝姫王と別れた(あや)は鞍作と殆ど同じように育てられた。蘇我家と東漢家のお互いの館を行き来し、時には取りかえっ子のように暮らしたりもしていた。背恰好も顔立ちも、声までも双子のように似ていた。毛人には初孫も年を取ってからの子も同様にかわいかった。この子らに蘇我は強くあり続けなければならない。父馬子の気持ちが少しづつわかりかけもした。

その蘇我馬子が高齢のために世を去った。厩戸皇子が薨じてまだ四年しかたっていなかった。
毛人は馬子の紫冠を継いで豊浦大臣となり、大王に継ぐ朝廷の権力者となったが、進まない国史の編纂や、定まらない対唐政策に追われ、馬子の死を悼む余裕が無いほどであった。そこをつけ込む馬子の弟、境部摩理勢(さかいべのまりせ)が馬子の墳墓について毛人に異を唱えた。
「いつまでもほおっておくならば、境部が墳墓の建設をしよう」
総領の墳墓建設は、後継者の役目であった。境部が馬子の墳墓を建設するという事は、摩理勢が蘇我宗家を乗っ取る事を意味していた。
毛人は摩理勢の動きを懸念した。馬子の遺体は、すでに葬られている。これは馬子の遺言によるものであった。時期も場所も蘇我家以外に知るものはなかった。
馬子は死の間際、毛人を呼んで蘇我を継ぐのはおまえだと言い残していた。
「摩理勢が蘇我宗家を狙っているが、ここまで大きくした蘇我をおまえ以外に託す気はない。用心深いのも悪くはないが決断力も必要だ。すぐ考え込む性格を生かすように務めよ。決して摩理勢に気を許すな」
それは毛人が聞く初めての親の言葉であった。自分が築き上げてきたものを崩したくないがためかもしれない。それでも毛人は、馬子を父として尊敬していた自分に気が付いた。
馬子の墳墓を設するかどうか、迷うところであったが、毛人は摩理勢に牽制するかのように、島の庄に近い場所に巨大な石を積んだ馬子の碑を建てた。摩理勢の動きは一旦収まるかのように見えた。

毛人の近辺がにわかにあわただしくなった頃、宝姫王が田村王との間に男児を産んだ。
そのひと月後、漢が死んだ。

高向王の時とは違い、今度は何者かによって殺された事は明らかであった。漢の左胸は鋭利な刃で貫かれていた。馬子の死で慌ただしく、家人の少なくなっていたあの宝姫王のもとの屋敷が野盗に襲われたのだ。
漢と一緒にいた鞍作は、その時の衝撃で、口をきくことが出来ないほど放心していた。目の前でおきたであろう惨劇を、ついぞ語る事が出来なかった。
十歳になるかならないかの子供である漢まで殺されたのに、鞍作だけが生き残ったことは、事件の真相を探る重要な鍵となった。
漢と鞍作は隠れ鬼のようなことをして遊んでいたのだろう。そこへ押し入った野盗達がひとりひとりを惨殺していった。その時隠れていた鞍作を、野盗は気が付かなかったのかも知れない。屋敷の荒れようからして、決して営利を目的としたことではなかった。でなければ、隠れていた鞍作も見つかったであろう。
そこで矛盾がおきる。下働きの数人は逃げだした屋敷の外で殺されていた。夕暮れ時とはいえ、都に近いこの屋敷では、いつ衛視がくるともしれない。呼ばせないために家人を全て殺したなら、もっと屋敷内の物色があってもよかった。だが、隠れていた鞍作は助かった。金品も当たり障りのものしか持ち出されていなかった。つれ去られるはずの見目のよい侍女も殺されていた。みな殺しにしたのは、己の正体を隠すためであったと毛人は読んだ。
漢を殺した時点で、野盗の役目は終わったのだ。
漢を殺した者は、おそらく高向王の馬に鏃を放った者と同じ背後をもつ者なのだ。

毛人は放心して意識を無くした鞍作を、馬子が住んでいた島の庄に移した。守りを固め、島の庄を管理していた蘇我の傍流だけに鞍作の世話をさせた。鞍作はあの事件以前の記憶を失ったままそこで幼時期を過ごした。
漢の死を一番嘆いたのは、宝姫王であったに違いない。しかし知らせを聞いたであろうが、宝姫王からは何も言葉はなく、三年後、田村王が大王に就くまで毛人の前に姿を現さなかった。


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山背王が大兄になったそんな折り、宝姫王の父、茅淳王(ちぬのおおきみ)が身罷った。

家を出た宝姫王であったが、知らせを聞いてすぐ茅淳王の館に戻った。
館には母の吉備姫王、弟の軽王、他の異母弟妹たち。田村王、鏡王、そのほか息長氏族の豪族達が居た。葬儀の祭祀は宝姫王の異母妹三上姫が執り行っていた。
葬儀の間、参列した息長氏族達の目は、宝姫王に注がれていた。子を産んだとはいえ、宝姫王はまだ充分に美しかった。年を経る事に色の香を増しているように思えた。これならば、まだ充分にいける。吉備姫王と息長氏族の間で、暗黙の了解が取り交わされた。

そして高向王が死んだ。

落馬であった。
馬の尻には鏃のあとがあった。何者かが馬に矢をかけ、事故に見せかけたのだ。
いったい誰の仕業か。毛人は落胆と共に強い憤りを感じたが、鏃の件は馬子にも宝姫王にも告げなかった。高向王を殺して得をする人物がいるとは思えなかったが、黙っていれば必ず現れる。
宝姫王は高向王の非業を嘆いたが、気丈にも立ち直った。宝にはまだ漢がいた。漢のためにも泣いてばかりもいられなかった。漢の存在が宝を強くさせた。
その宝姫王が取り乱しながら毛人の元にやってきた。
「助けて、豊浦どの。わたくしを助けて!」
髪を乱し、衣の裾をもつれさせ、宝は毛人にすがった。
「連れ戻されてしまう。あの人達が、わたくしと漢を引き裂こうとしている」
高向王が死んだため、吉備姫王が宝姫王を田村王に嫁がせようとしているのを毛人は知った。合点がいった。高向王は息長に殺されたのだ。
「お願い。わたくしと漢を助けて!」
宝姫王を渡さない事も、あるいは出来たかも知れない。武力にせよ、財にせよ蘇我に息長がかなうわけがなかった。しかしここで宝を守って何になる。高向王はもう死んだのだ。生きているうちの出来事なら理由は明確だ。だが寡婦となった宝姫王の再婚を祖止する権限は、蘇我家にはなかった。
毛人は息長の狙いがなんであるか読めた。田村王を推して大王にすること。その時大后となるのは蘇我の法堤郎女ではなく、息長系王族の姫でなければならない。そのために宝姫王を連れ戻そうとしているのだ。
「宝姫王、漢人はわたしが責任をもって預かりましょう」
毛人の言葉に宝は顔をこわばらせた。
「な、」
「さあ、立ち上がって下さい。吉備姫王の館まで送りしましょう」
「豊浦どの…!」
宝姫王はしばらく涙に縁どられた瞳で毛人を見つめていた。それが次第に険しいものになり、毛人の手を振り払った。
「わたくしを見捨てるというのね」
「いいえ。あなたの将来を思っての事」
「言い訳はけっこう!」
宝姫王はこみ上げる嗚咽を堪えて声をあらげた。
「輿を用意させましょう」
「いいえ」
宝姫王は顔を上げ、毛人に背を向けた。
「ひとりで帰れますわ」
この気丈さ。毛人は高向王が宝姫王を選んだ訳がわかった気がした。この強さは侵し難いほど美しいと思った。
歩きだした宝姫王は、つと足を止め、毛人に言った。
「漢を、頼みます」
「必ず」
宝姫王は吉備姫王の館に戻り、高向王が死んだ一年後に田村王に嫁いだ。
田村王の、時には宝姫王をつれて伊予の石湯に行幸をしたりと、夫を亡くし、息子と離れた宝をいたわる様子が伝えられたりした。

その年、半島では新羅が任那に攻め入ったという知らせが倭国に入った。
唐建国に乗じた動きである事は一目瞭然であった。新羅征討軍を直ちに派遣したが、戦況は芳しくなかった。
翌年には唐によって三韓が冊封されたとの知らせが入った。唐の介入で倭国軍は半島を引き上げるよりほか、方法がなかった。任那どころではなかった。三韓が唐の属国となったとすれば、次は倭国の番であった。
巷では唐の大軍が押し寄せてくるとの噂が流れたが、いったいどうすればいいのか、どこに逃げればいいのか見当もつかないで、ただ右往左往するだけであった。


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時は50年さかのぼる。

高向王(たかむくのおおきみ)は毛人と池辺双槻宮大王(いけのへなみつきのみやのおおきみ)(用明天皇)を父に持つ嶋皇女との間に出来た子であった。
嶋皇女の母石寸名(いしきな)は蘇我馬子の妹である。毛人と皇女はいとこ同士の関係ではあるが、大王の子女はいくら母親の出自に問わず皇子皇女の位がつき、決して豪族や臣下に嫁すことが許されない存在であった。
池辺双槻宮大王がわずか二年の在位で崩御したあと、石寸名親子は蘇我家の庇護を受けていた。年が近く美しい嶋皇女と毛人の関係は、自然の成り行きであったが、嶋皇女は蘇我への中傷を恐れて、生まれた高向王の父親の名を誰にも告げないまま、若くして亡くなった。

高向王は同じ蘇我の流れを汲む高向氏のもとで育てられた。
時が経ち、高向王は快活な青年に成長した。明るく朗らかで見目のよい高向王は宮廷でも人気があった。高向王は自分の立場をよくわきまえていた。毛人が自分の父であることは周知の事実であった。後ろだては、高向氏よりも蘇我氏の方が断然有利である。位階も領地も、蘇我の一言でどうにでもなる時代だ。しかし、高向王は蘇我に対して不用意な願いをすることは決してなかった。
毛人にしてみれば禁忌をおかしてまで成就した恋の忘れ形見である。かなえられる事であれば、なんでもかなえてやりたかった。
しかし蘇我家は依然として馬子が総領であった。馬子にとっては大王位継承から遠い高向王の存在は、蘇我家の荷物でしかなかったのである。毛人は馬子の方針に従うしかない自分のふがいなさにどうしようもない苛立ちを感じていた。

そんな高向王が妻を娶りたいと言ってきた。相手は蘇我の血を幾らかひいているとはいえ、息長系に属する宝姫王(たからのひめぎみ)であった。今の飛鳥板蓋宮大王である。当時、宝姫王は父方から数えても母方から数えても大王の曾孫の代にあたり、宝姫王に子どもが生まれれば、子は王を名乗る事ができない位であった。
高向王の相手としては何の問題もなかった。問題は宝姫王の母、吉備姫王が強固に反対を唱えたことであった。宝姫王には田村王(たむらのおおきみ)との婚姻が約束されていたのだ。
宝姫王は家を出た。宝姫王は本来の勝ち気な性格で、息長を捨て単身で高向王の元に来たのだった。
毛人は高向氏に命じて蘇我家に仕える東漢氏に館を用意させた。高向王と宝姫王のための館で
あった。それが毛人にできる精一杯の親心であった。
二人が暮らし始めてまもなく馬子は田村王に自分の娘を差しだした。後に古人皇子を産む法堤郎女(ほていのいらつめ)である。田村王に対するお詫びと取引であった。力のない王族の姫より、この蘇我が後ろだてになりましょう。そういう意味のものであった。毛人は馬子の計算高さにあきれると同時に、歯がゆさも感じた。大王候補となりうる皇子に蘇我の種を撒く。稲目の代から続いた蘇我の政策であった。そこまで毛人は手を討つことができなかった。いや、考えつかなかった。馬子の強大さに圧倒され、その馬子から蘇我宗家を引き継ぐことに毛人は負担を感じた。

高向王と宝姫王がどういう経緯で知り合ったのかはわからない。だが二人の夫婦仲は睦まじかった。高向王には他に通う女人もおらず、毎日のように宝姫王の館に赴いていた。決して女にもてないわけではない。むしろ縁組みを申し込まれる方が多かった。これは、と思うものを毛人も進めてみたが、高向王は宝姫王以外は眼中にないといったふうであった。
数年後、二人の間に男児が生まれた。宝姫王の世話をしている東漢氏の女が乳母になったことから、(あや)と名付けられた。漢はもはや王名を継げない代である。周囲からは敬称をこめて漢人(あやひと)と呼はれた。
時を同じくして、毛人にも待望の男児が生まれた。蘇我宗家を継ぐべき大郎、鞍作(くらつくり)である。

漢と鞍作が生まれた翌年、大陸の随が滅び、唐がたった。
その知らせは三ヶ月遅れで大和に届き、朝廷に大きな動揺をもたらした。大国の随がたった二代で滅びるなど考えもしなかったことであった。今後の三韓の動きや倭国に対する唐の政策。半島の任那の存続。参議では誰もが興奮して言葉を発したが、それらはすでに伝えられた事柄ばかりであった。唐がいかなる組織なのかさえはっきりしたことは誰にもわからなかった。が、時が経つにつれ、高句麗に向けた度重なる巨万の出兵が人々を疲労させ、臣下の一人李族に討たれたと判った。
大陸の政権交替は突然の嵐のように起こる。倭国のように代々大王の血統性を重視する世襲ではなく、時に異なる氏族、又は異なる民族が前の宗主を倒して政権を樹立する。力と徳のある人物が、天から位を頂き天子となるのだ。
神々の子孫たる大王家が現人神となって民を治める倭国。隋や唐の建国は、倭国の国の成り立ちを揺るがす事件でもあった。

大陸のような世襲が起こる事を恐れた厩戸皇子は、蘇我馬子と共に国史の編纂を始めた。蘇我家などの有力豪族にとっても大王家は必要であった。大王家あっての豪族である。国史は大王家の正統性を神話に置き換えて広める大きな役割をもつであろう。今までそうであったように、これからも国を治めるのは神々の子孫である大王家以外であってはならない。大王の地位を揺るぎ無いものにする。国史編纂にはそんな意味が込められていた。
しかし、国史編纂を始めた二年後、厩戸皇子が薨じた。まだ四十九歳の若さであった。
朝廷の受けた衝撃は大きかった。
小墾田宮大王(推古天皇)は高齢に達している。大王亡き後は厩戸皇子が大王位を継ぐ事を、誰もが信じて疑わなかったのである。
次の後継者を誰とするか。
馬子は自分の孫であり、厩戸皇子の長子である山背王(やましろのおおきみ)を大兄に就かせた。
少々強引なやり方でもあった。当の本人の山背王は斑鳩の宮をほとんど出る事がない。いったい山背王がどれほどの人物であるのかを知るものは少なかった。が、多くの臣下たちは厩戸皇子の偉功を継ぐものとして、山背王の大兄に賛同した。




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