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夢のはざま

鏡女王の物語【水鏡】連載中です。

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 ラースローはふと振り返った。
「どうした」
 アリアがラースローの見た方向へ目をやった。
「いや」
 霧が立ちこめ始めていた。その中で、ラースローはティスナの歌声を聴いたような気がした。
 ティスナはこの世から消えたのだ。ラースローは自分の運命も、そう遠くない内に同じ経路をたどることを予想した。いつまでも逃亡が続くわけがない。やはりアリアをどこかで追いやるべきだったか。
 どこへ行く訳でもなく、アリアとラースローは馬を進めていた。
 緩やかな丘が幾重にも重なっている。林が所々に続く大地であった。
 そのひとつの丘を差して、ラースローは言った。
「クレメンテだ」
 遠くの丘の林の向こうに、教会の尖塔が見えた。アリアはラースローから目を離し、その尖塔を目を凝らして見た。霧が深くなればどこにあるのかもわからないような、古くひっそりとした建物であった。
「あれがクレメンテの神学校か」
 門外不出の知識を守り継ぐためだけの場。中で何が行われているのか、誰が、何人いるのか、連れて来られた少年達の事など、知る者はいない。
 ラースローの手綱を持つ手は白く、震えていた。表情は冷めてはいるが…。
『あまりいい思い出はなさそうだな』
でなければ、あのオレアルについて行く訳がない。
 ふいにアリアは言った。
「復讐する気はないか」
 ラースローは突飛なことを言い出すアリアを見た。
「どうやって。焼き討ちでもするのか、たった二人で」
「まさか。焼いたところでまた別の場所に移るだけだ」
「では、どうする」
 アリアの目は尖塔を見据えていた。が、ラースローに向き直って言った。
「秘密を秘密で無くせばいい。他が知るようになれば、知識を守る必要がなくなる。クレメンテは自然に消滅するさ」
 ラースローはしばらく呆気にとられてアリアを見つめていた。が、急に高く笑い始めた。腹の底からの笑い声だった。
「何がおかしい。真面目だぞ、私は」
 自分の笑いにむせながらラースローは聞いた。
「それを知った奴らがわたしたちを追ってきたらどうする」
 だがアリアは明るく自信に満ちた声でこう言った。
「その時は私がお主を守ってやる」
 ラースローはすとんと心が軽くなるのを感じた。
 まったくこいつには驚かされる。かなわない、とラースローは思った。
 知識や術が自分のような人間に使われる事があるかもしれないし、クレメンテの人間がアリアの剣に負けるとは思えない。しかしこいつは秘密を漏らせという。自分が守るからと。
 無茶だとラースローは思った。だが、アリアとならやれそうな気がした。
「いつまで笑っている」
「笑ってなどいない」
「口が笑っている。私は何かおかしい事を言ったか」
「いや」
「おかしくもないのに笑うのか、面白い性格だな」
 アリアに言われたくはない。ラースローはまた笑った。
「そうと決まれば長居は無用だ。行こう」
 ラースローとアリアの影は、霧の丘を越え、見えなくなった。
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 陰謀に荷担したオレアルを討ったことは、すぐに宮廷中、町中に広まった。オレアルから名のあがった人物は、ことごとく投獄され、ある者は地位と財産を没収されて追放された。
 前国王派だった者達のほとんどは、この事件に関係がない者も全てオレアルの口から名が出たと言うだけで、職務を追われ、宮廷から姿を消した。政権交替の粛正だった。
 ティスナはそんな粛正の最後のひとりとして街の広場に姿を現した。
 前国王を拐かした悪女の火刑を行うという触れが前日に出され、当日は街中の人間が集まったのではないかと言うほど、広場には十重二十重の人だかりができていた。
 火刑用の薪と藁の山が広場の中央にあり、真ん中に一本の柱が立っていた。正面には台座が据え付けられており、ティスナはそこに両手を後ろ手に縛られて、膝まづいていた。
 広場に面した建物のバルコニーに、国王メルキオの姿があった。隣には王妃アデリーナの姿もった。側には新しい臣達と、近衛隊長のカルロス・モドリッチが控えていた。オリシスは一番奥の柱の影から広場の様子を眺めていた。
 エドアルドとサリエルの姿はそこにはなかった。
 エドアルドは民衆に混ざっていた。この刑が済み次第、ラースローの追跡をはじめるつもりだった。
 それにしても、あのときティスナが言った言葉は何だったのだろう。
「来年の春、バルツァ家を訪ねるがいいでしょう。一段と美しい花が咲いているかもしれぬ」
バルツァ家のサリエルとティスナには何のつながりがあるのか。遠くに見えるティスナの横顔は、やつれてはいるが、あの時のように気品と威厳があった。
「ひどい女だよ。さんざん贅沢して、あげくに王子達をのろい殺しちまうんだから」
「やれやれ、これで生活が楽になるなあ」
 民衆の声がエドアルドの耳に入る。ひとりの女がこれから死ぬというのに、何かもっと思う事はないのか。国王のコーツウェルへの行列には、あんなに人が群がって手を振っていたではないか。
 エドアルドはなんとも言えない違和感を感じていた。その違和感の正体がなんであるかわからなかった。全てを繋ぐ歯車のひとつひとつがかみ合わない。そういった感覚であった。
 司教がティスナに最後の懺悔を聞く声が聞こえた。民衆はそれを合図にざわめきを飲み込んでいった。
 ティスナは顔を上げたが何も言葉を発しなかった。民衆はがっかりしたようにため息を漏らした。 執行人に引き立てられ、ゆっくりとティスナは台座から下りた。ティスナは白いすっきりとしたドレスを着ていた。タニアも風が冷たくなった今日この頃である。薄い布一枚では寒いだろう。足は裸足だ。黒い髪だけが唯一の色彩だった。かつての栄光は既に消えていた。がエドアルドにはこの時ほどティスナを美しいと感じた事はなかった。 
 中央の柱にティスナの細い体がくくりつけられた。薪がさらに積まれた。
 ティスナが民衆の中にただ一点に瞳を固定しているにエドアルドは気がついた。ティスナは瞬きもせずしばらくじっと、見つめるように一点を見ていた。エドアルドはまわりの者を押し退けて、前に出ようとした。
『何を見ている。誰を』
 ティスナは一瞬微笑んだかと思うと、ふいに声を出して歌を歌い出した。
 確かにそれは歌であった。優しくゆったりとした調べであった。だが、その歌の内容がどんな意味なのか、どこの国の言葉なのか、聴衆にはわからなかった。皆ただ唖然とその歌声を聞き入っていた。
 それは天から聞こえてくるような透きとおった歌声であった。ティスナの顔は幸福そうに輝いて見えた。まるで神の祝福を受けているような、そんな表情であった。
 どこまでも歌声は響き渡った。街の窓に、木々の鳥に、丘をわたる風に、山を取り巻く霧に、空を飛ぶ雲に。ティスナの歌は全てを包み込むように響き渡った。誰もがティスナの歌声に心を奪われた。
 メルキオが手を上げた。ティスナの歌に動きを止めていた執行人は、我に返ったように藁に火をつけた。炎が瞬く間に広がって、煙がたちこめた。が、ティスナの歌声は続いていた。
 エドアルドは煙で姿が見え難くなったティスナを、それでもじっと見つめていた。炎が高くなり、ティスナの姿は陽炎のように揺らめいて見えた。薪の燃える音が聞こえる。だが歌声は微かに伝わった。あるいはもう、かき消えていたのかも知れない。余韻が耳に残っているだけなのかも知れない。火は放たれた。もう、その姿も声も聴く事は出来ないのだと、エドアルドは思った。
「恋の歌だ」
 呟いたサリエルを、「は?」と部下は聞き返した。
「いや、何でもない。行こう」
 サリエルは馬首を返して、広場から去った。ティスナの歌った歌は、アルラの古い民謡で、恋人に捧げた恋の歌だった。祖母が父に聴かせた故郷の歌だった。
 サリエルは最後まで救う事の出来なかった異国の娘を思った。
「やっと解放されたのだ」
 故郷に帰ろう。サリエルの隊は南へと向かった。
 炎が完全に立ち昇ると、民衆はひとり、またひとりと自分の家に引き返して行った。完全に燃え尽きるまで時間がかかる刑だった。波が引いて行くように人々が動きだした。
 だがエドアルドはじっと炎を見つめていた。全てはこれで終わったのだろうか。父の仇討ちはこれで終わったのだろうか。まだラースローが残っているが、もう、エドアルドにはラースローさえどうでもいいと思っていた。アリアの事は気にかかるが。
 肩を叩かれて、エドアルドは振り返った。オリシスがいた。いつの間に下りて来ていたのだろう。
「すまなかった」
 オリシスが言った。
「何がだ」
「お主達を引き込んでしまった事だ」
 エドアルドは首を振った。
「仕方ない。それにもう終わろうとしている」
「おまえはやはり後悔しているのではないか」
「…なにを。父の仇は討った。謀反の容疑も晴らし、汚名を雪いだ。他になにを望む」
 エドアルドの言葉にオリシスは笑った。面白い兄妹だ。髪の色だけでなく言う事まで同じときている。そう、アリアも同じ事を言った。
「アリアは…」
「まだ死んではいない。あいつはおれの妹で親父の娘だ。カルマール家の家訓を忘れたか」
「自分の事は自分でする」
「そう」
 エドアルドはもう一度炎のティスナを見た。歌声がまだ耳に残っていた。

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 葬儀の翌日、皇太子メルキオの戴冠式が行われた。
 メルキオは名実ともにエタニアの国王となった。新政権の誕生である。
 依然、キアヌの行方は掴めなかった。行方と言えばラースローとアリアも見つかってはいない。
 ティスナをタニアに護送したエドアルドは、オリシスとサリエルと共に王宮のひと間に控えていた。
 アリアがラースローと逃亡している事について、エドアルドは何も言わず眉をしかめただけだった。
 国王メルキオが姿を現した。カルロス・モドリッチがそばに控えている。
「この度の働き、ご苦労であった」
 二人は頭を下げた。
「ヤーニス・オレアル伯がカルロス・モドリッチにこれまでのことを子細漏らさず話したそうだ」
 カルロス・モドリッチは、オレアルが安心して新政権に迎えられたと思っている、自分の屋敷で安穏に生活していると伝えたあと、
「エドアルド、貴公の言った通りだ。餌をちらつかせたら簡単に釣れた」
 と言った。
「エドアルド・カルマール。ヤーニス・オレアルを捕らえよ。抵抗したなら、その時の処置はまかせる」
 エドアルドはうつ向いたままメルキオの言葉を反芻した。そんなエドアルドをオリシスはちらりと見る。
「全てを語ったということは」
 サリエルが膝を送ってメルキオに問うた。
「ティスナ様は」
「あの者の罪は重い。オレアルの処置が済み次第、処刑する」
「陛下!」
 サリエルが更に膝を送った。
「罪を認めたのですか? オレアルの証言だけでは真実かどうかわかりませぬ」
「だがあの女は逃げ出した」
「ですが、最後まで誠意をこめて前国王を看取ったのはあの方です。その点をもう一度熟慮願います。どうかせめて裁判を」
「罪は決まった。裁判の必要はない」
 それは絶対的な言葉であった。サリエルは拳を握りしめて頭を下げた。
 メルキオが退出した後、サリエルがひとり先に出た。
「エドアルド。私も行けと命を受けている。このまますぐ発つぞ」
 カルロス・モドリッチが近衛兵を呼び、控えさせた。
「エドアルド。陛下は貴公を試している。どういう行動をとるか見るおつもりなのだ。この意味がわかるであろう?」
 帽子のをかぶり直してカルロス・モドリッチがエドアルドを見る。オリシスがエドアルドの肩に手をおいた。
「オレアルを切るか?」
「わからぬ」
 エドアルドは呟いた。憎い仇だった。父を殺したのはまちがいなくあの男だ。そればかりか汚名まできせた。
 メルキオはエドアルドがオレアルをその場で殺すのを期待しているのだろう。生きて王宮に入れたくない気持ちは良くわかる。それがわからぬよう人間は必要ではない。確かにメルキオはエドアルドの力量を試すのだろう。
「その場になってみないとわからぬ」
 もう一度エドアルドは呟いた。オリシスもマントを羽織る。
「おれも行こう。おまえの仇打を見届けてやる」
 頷いて、三人はオレアルの屋敷に向かった。

 オリシスとカルロス・モドリッチの来訪を、オレアルは喜んで迎えた。近衛兵の姿を自分を王宮に迎えるための護衛だと見た。
「よく参られた。さあ、中へどうぞ。オリシスどのも」
 かつて自分がした仕打ちの事など、記憶の彼方に追いやっているようだ。オリシスは無表情でオレアルを見た。
「まあ座ってくだされ。取っておきのワインを出しましょう。おい、だれか」
 家人を呼び、改めて客人を見たオレアルは、もうひとり見慣れぬ騎士がいることに気が付いた。
「そちらの騎士は」
「ああ、紹介しましょう」
 カルロス・モドリッチが名を言う前にエドアルドは帽子を取った。染めたままの褐色の髪。
 この顔…。オレアルは眉をしかめて記憶を手繰り寄せた。どこかであったことのある…。
「初めてではない。会った事はあるはずだ。思い出すがいい」
 声を聞いて、オレアルの顔色が変わった。
「偉くなったものだな、オレアル。父カルマールも喜んでいるだろう。自分の部下がこのように出世して」
「き、貴様は…!」
 オレアルは後ずさった。一歩、エドアルドが近づく。
「さんざん人を罠に仕掛けてきたおまえだが、自分の足元の罠には気が付かなかったようだな」
「なっ…」
 オリシスとカルロス・モドリッチの顔を見比べたオレアルは、ようやく自分の立場を理解したようだった。
「モドリッチ殿、どういう事だ。言ったではないか。殿下は心の広いお方で全ては水に流すと」
「確かにそう言った。だが、言ったのは私でメルキオ陛下ではないのでね」
 オレアルは言葉を失った。
 騒ぎを聞きつけたオレアルの私兵数人が剣を手に三人を囲んだが、さらに大勢の近衛兵達に囲まれているのを見て怯んだ。
「悪あがきはやめろ。陛下はおまえの爵位を剥奪した」
 エドアルドが剣を抜いた。と、突然オレアルは高笑いした。
「おまえに人が殺せるものか。あの男も軟弱なやつだった。泣いてわしに命乞いをした。泣いてだぞ。あの男の息子のおまえも同じだ」
高笑いをやめないオレアルの首を、エドアルドは切った。ドサリと音がして、オレアルの太った体が床に転がった。
「計算違いをしたようだな。父はそんな男ではない。そんな戯れ言に動揺するおれでもない」
 死体に向かって言葉を吐き捨てたエドアルドに、カルロス・モドリッチは口笛を吹き、オリシスは眉をしかめた。
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 ティスナはゆっくりと小さな声で、国王の死、ここから向かう場所、キアヌの置かれている立場をリュージャに聞かせた。と言ってもラティアに細部まで解るわけもなかった。キアヌの前ではティスナの過去は話せなかったが、それはリュージャが一番良く知っているはずだった。そしてティスナが引き起こした呪詛事件のことも。
「母上は、やっぱりぼくが嫌いなんだ」
 キアヌがうつ向いた。
「それは違うわ」
「だったらどうして一緒に逃げてくれなかったの? ぼくが足手まといだから? ぼくがいると母の立場がわるくなるの?」
「違う」
 ラティアは苛立った。
「あんたは幾つになった? もうそろそろまわりを見渡してもいいころよ。これからは自分で自分を守っていかなきゃならないの。ひがんだりすねたりしている時間はないのよ。こんなことになって辛いだろうけど、あんたを逃した母親の想いを大事になさい」
 ひとりの人間として、ひとりの人間に対する思いをラティアはぶつけた。
「あんたを見捨てたんじゃないわ。あんたを生き残らせたかったのよ。強くなりなさい。あんたの母親はひとりで戦っている。あんたに出来ないわけがないわ。自分の人生に立ち向かって行きなさい」
 エドアルドもアリアンもティスナもひとりで戦っている。ここにいるリュージャもずっと戦ってきた。
「あんたが今まで宮廷で窮屈な生活をしていたのはわかっているつもりよ。あんたの相手をしてくれる人は誰もいなかった。母親は前ばかりを向いていて、あんたを省みなかった。父親の愛は盲目すぎた。確かにあの人はあんたには冷たかったけど、あたしにこう言ったのよ。愛する事は出来なかったけど、息子の幸せを願っていると」
 キアヌは目を見開いた。
「あの人は愛し方を知らなかった。いえ、そういう思いも愛であると知らなかったのよ」
 キアヌは何かを言いかけたように口を開き、そして閉じた。
 リュージャはそんなキアヌの手を取って、やさしく包み込んだ。
「あなたの名に良く似た言葉があります。 -キア・ヌィ-。 アルラの国の古い言葉で、美しい海という意味です。母君の生まれた港もそう呼ばれてました」
 涙がキアヌの頬をつたった。あとからあとから流れ落ちた。声をたてまいと必死に堪えるキアヌをラティアは抱きしめた。ティスナの想い。リュージャの想い。全てが深く悲しかった。
 声を立てずに泣くキアヌは必死に大人になろうとしていた。

タニアで厳かに国王オルギウスの葬儀が執り行われた。
 キアヌは窓から父である国王の為の鐘の音を聞いてた。何を考えているのか、じっと耳を傾けているその姿に、ラティアは声をかける事ができなかった。
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 後少しでタニアに入る。ラティアはキアヌの肩を抱き寄せた。キアヌは北宮を出てから何も聞かない。なぜ北宮を離れるのか。なぜ王の馬車ではなく、荷を積んだ小さい馬車なのか。なぜ平民のような恰好をしているのか。
 キアヌにはもう解っているのかも知れない。父国王の死も何もかも。知っていながら耐えているキアヌがラティアには悲しく思えた。
 北宮を出た後、ラティアはジノアという街宿に向かった。かつてラティアの背後でささいた女の声にあった宿だ。自分の名を告げると、店主は奥につれて温かいお茶を飲ませてくれた。
「もしあんたが来たら知らせてくれって頼まれてたんだが、もう随分前にその方達は出て行ってね」
 それきり連絡はないのだと店主は言った。その人物の名はラティアには心当たりがなかった。偽名かもしれないと思ったが、いないのではしかたがない。取りも取りあえず来てみたが、味方だと言う証拠はないのだ。
 連絡が取れなかったのは、父の看病で手が離せなかったのだとラティアは言った。
「商売でこっちに来ていたんだけど父さんが死んで、田舎のおばさんを頼らなくちゃいけなくなったの。タニアまででいいから、タニアに戻る商人を紹介してくれない?」
 馬を買って単独で走らせるより、どこかに紛れ込んだ方が安全であるとラティアは思った。実際キアヌを連れて二人で旅をするなど無茶な話だった。
 人のいい店主は明日出る商人の一家を紹介してくれた。
「なんでもします。あたし、下働きでもなんでも」
 お金をもたない孤児、キアヌはラティアの弟という間柄にした。父親の死のショックで言葉が話せない。そうしなければ喋り方で怪しまれる可能性があった。演技ではなくキアヌは言葉が少なかった。体が弱いことにしている弟の分もラティアは働いた。食事の支度から洗濯。時には夫人の話し相手にもなった。夫人はラティアを気に入ったようだ。もしよかったら、タニアでも働いてくれないかとまで言ってくれた。だがラティアは笑って辞退した。
「残念だわ。あなたのことを想っている若い者がたくさんいるのに」
 商人の雇人達の中でもラティアは人気者になっていた。キアヌを誘って、途中の川で釣りをしてくれる者もいた。初めはなれないキアヌであったが、やっと釣れた魚をうれしそうにラティアに見せる事もあった。
 
 タニアの入り口で商人の一家に別れを告げた。夫人も商人も涙を流して別れを惜しんでくれた。 無事にタニアにはついた。問題はこれからだ。ここに長くいる訳にはいかない。タニアにはキアヌとラティアを知っている者も大勢いる。
「店にいってみようか」
 とラティアは迷った。あの事件を知らない者はいないだろう。ここからどうやって南へ行こう。
 タニアの街はいつも通りの活気があったが、それとは違うざわめきもあった。それがなんであるかラティアにはわからなかった。
 ふいにラティアは路地に引き込まれた。キアヌがラティアの腕にしがみつく。
『物盗り? それとも』
 ラティアの背中に汗が流れた。鼓動が早くなる。
「わたしです」
 その声は
「異人さん…」
「無事だったのですね」
「ああ…」
 涙が溢れた。ラティアは異人さんに抱きついた。
「よかった。心配していたの、よかった」
 異人さんはラティアを抱きかかえながら、自分の家に連れていった。
 小さな貸し部屋には小さなテーブルと椅子、それにベットが置いてあるだけだった。異人さんが階下のかまどから湯を運んでくる間、キアヌとラティアはベットに腰掛けていた。
「あたしの友達なの」
 キアヌにはそれだけ言った。こくんとキアヌは頷いて、それ以上聞かなかった。
 茶器も借りてきたらしく、それぞれ形の異なったカップでそれぞれが黙ってお湯を飲んだ。
「あの店は?」
 ラティアが沈黙を破った。
「大丈夫です。みんな元気ですよ」
「異人さんは?」
「わたしもまだそこで働かしてもらってます」
 よかった…とラティアは目を伏せた。
「ごめん。巻き込んじゃって」
 異人さんは首を振った。
「いいえ」
 あのおかげで会いたい人に会えた。異人さんはキアヌの方を見た。目を細めて微笑む。
「キアヌ様、ですね」
 ラティアもキアヌも同時に異人さんを見た。
「母君の面影があります」
「おかあさまを知っているの?」
 止めようとしても無駄な事だった。キアヌは抑えていた感情が吹き出すように、リュージャにすがった。
「古い知り合いです」
 初めて知った。ラティアは異人さんの横顔を見た。黒い髪、訛のある喋り方。異人さんというあだな。
「まさか…。まさか、リュージャって…?」
「そう、わたしの名です」
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「カルマール殿」
 サリエルの兵士の一人に呼ばれて、エドアルドは馬を下りた。小さな焚火の跡があった。
「まだかすかに熱があります」
「まわりの者に伝えて貰いたい。むやみに歩き回って足跡を消すなと」
 焚火の跡は小さかった。ある程度の人数が推定できる。北宮を出る前に確認した事をあわせるとこの逃亡に従った人数はほんの数人になる。その中にはラティアも含まれていた。
 だが足跡と蹄の跡は一人かせいぜい二人、そんなものだった。
「まだこの近くにいる。違うかも知れない。見つけても脅かすな。むやみに剣を抜くな」
 足跡の方向に馬を進める。どこに向かっているのだろう。東か北か。隊は分散し捜索を始めた。
 エドアルドが進む方向に小さく馬の影が見えた。と、エドアルドは馬を全力で走らせた。前方の馬上の騎手が振り返る。追うエドアルドに気がついた騎手は馬を蹴って駈けはじめた。騎手はひとり、服装は男のものだ。
「はっ!」
 エドアルドは馬に鞭をかけて追う。差はみるみるのうちに縮まった。他の方向を探索していた兵士達がエドアルドに気づき、向かってくるのが遠くに見えた。
「止まれ!」
 馬一頭ぶんの差に追いついたエドアルドは、馬上の騎手に命令した。が、もちろん止まる様子はない。エドアルドはさらに馬の速度を早め、前に回り込んで行く道を塞いだ。と逃亡者の馬が驚き、高く前足を上げたかと思うと、馬上の人物を振り落としてわき道にそのまま駈けて行った。
 馬から下りたエドアルドは剣の束に手をあて、その人物に近づいた。顔を伏せて投げ出された身をかばうように背を向けている。マントのフードからこぼれた長く黒い髪。
「ティスナ妃でございますね」
 そう呼びかけられ顔を上げたその人物は、ゆっくりとエドアルドに向き直った。黒耀石のような瞳に射抜かれて、エドアルドは息を飲んだ。おびえもせず、取り乱しもしない冷静な瞳だった。
「お迎えにあがりました。タニアにお連れします」
 ティスナはゆっくりと立ち上がり、胸を張った。自然な態度であった。生まれつき備わった気品かとエドアルドに思わせた。たったひとりで逃げていたのか。どこかに行こうとしていたのか。共のものは…。
「キアヌ様は」
「知りません」
「他には」
「知りません」
 おそらくティスナは初めからひとりだったのだ。
「エドアルド・カルマールか」
 自分の名を呼ばれてエドアルドは身を硬くした。なぜ自分の名を。知っているのであれば、父に関する情報に自分も含まれていたからに違いない。それは父の死にティスナが関与していたにほかならなかった。そしてタニアで罠にはまりかけたのがこの自分である事も。
「来年の春、バルツァ家を訪ねるがいいでしょう。一段と美しい花が咲いているかもしれぬ」
 エドアルドがその意味を問う前に、兵の一団が追いついた。
「参りましょう」
 ティスナはマントの裾を翻して、エドアルドに背を向けた。兵士たちは黙って後に従った。
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 エドアルドがティスナの行方を追っている同時期に、オリシスはコーツウェルに入った。
 サリエルは国王の遺体をタニアに送る準備を進め、また、四方に張り巡らしたティスナ捜査網の管理もしていた。
「オリシス! 怪我はもう良いのか」
 サリエルはオリシスを迎えた。その様子は裏切行為とはかけ離れたものだった。
『決心がついたか』
 サリエルが何を考えていたのかはわからない。裏切りではなかったのかもしれない。しかし、もし仮にサリエルがメルキオを裏切っていたとしても、オリシスはサリエルを責める気にはなれなかった。サリエルにはサリエルの過去がある。バルツァ家の軍がこの国の中央へ向かない限り、その過去にあえて口を出す積もりはなかった。
「寝ていてばかりではしかたがないと、カルロス・モドリッチに叩き起こされましたよ」
 実際怪我は良くなっていた。オリシスがコーツウェルに来たのは、事の実態が見たかったのもあるが、アリアの行方も知りたかった。
 エドアルドが言ったように、アリアがコーツウェルを出ているとすれば、オリシスがタニアにいる間にアリアからの何らかの連絡があってもよかった。あの娼館にも姿を見せていない。シモーナは…。
 シモーナはすでにこの世にいないであろう。とオリシスは思った。
「ティスナ妃は」
「まだ見つからぬ」
「ラースローは」
 すぐにラースローの屋敷にも兵を差し向けたが、もぬけの空だったとサリエルは言った。まわりの農家に聞き取りを行ったが、複数の足音が西に向かったと言う者もあれば、北に走る影を見たと言う者もいた。そしてほとんどが何も知らないと言った。
 いずれにせよ、ティスナを捕らえるのと同じように四方に追跡隊を送っていると、サリエルは言った。
 北宮のサリエルを後にして、オリシスはラースローの屋敷に馬を走らせた。

 ラースローの屋敷は人が住んでいた痕跡がないほど整えられていた。家具には白い布がかぶせてあり、書室の窓のよろい戸は下りていた。台所の鍋や食器は磨かれて棚に納まっているし、寝室のシーツは乱れてもいなかった。
 ただ、書室の小さなテーブルには茶器が置かれており、中には香りのなくなった薬湯茶が半分残っていた。
 オリシスはその茶を指先ですくって香りを嗅ぎ、嘗めた。
「!」
 茶器を払いのけたい衝動をオリシスはかろうじて抑えた。誰の為に煎れたものだろうと、これはアリアの残した唯一のものだった。
「アリア…!」
 カルマール家の薬湯茶は特殊な煎れ方をしていた。薬草の組合わせがお互いの香りを引き立つように調合されている。熱い湯を注ぐとほんのり香ばしい香りが立ち、甘みがひきたつ。母が入れたようにはいかないが…と、あの農家風の小さな家で、アリアはいつも言っていたが、アリアの煎れた茶はエドアルドやカルマール氏や自分をなごませてくれた。

 アリアはラースローと共にいる。

 そう思うとオリシスはちりちりと焼き付く胸の痛みと息苦しさを覚えた。
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 ラースローは空が白みかけたころ自分の屋敷に戻ったきた。アリアはやはり寝ずに待っていた。
 書斎に入り、棚の本を眺めるラースローに、アリアは熱い茶を煎れる。
「おまえは茶を点てるのだけはうまいな」
 そう言われても素直に喜んでいいものかとアリアは思う。
 ふいにラースローが言った。
「国王が死んだ」
「え?」
「やっと死んだ」
 一ヶ月近くに及ぶ闘病だった。当の本人には闘病などという意識はなかっただろう。闘っていたのは、ティスナの方だったかもしれない。
 アリアにとっても国王の死は予感していたことだったが、やはりこうやって聞かされると次に何を言っていいのかわからなかった。
 やっと死んだとラースローは言った。それはラースローが呪縛からやっと解放された意味をもつのではないかとアリアは思った。
「おまえはもう兄のところに戻るがいい」
 ラースローはあくまでも静かに言った。そう、呪縛から解放されてラースローは死ぬ気なのだ。国王の死が知られれば、ティスナもキアヌもオレアルも捕らえられるだろう。ここにもまもなく兵がくるであろう。もう証拠があるとかないとかの問題ではなかった。メルキオの時がくれば、その一言で全ては片づいてしまうのだ。
「んー…、確かに私がここに居る理由はもうないが…」
 アリアはあごに手をあてた。考え込む振りをする。すでに心は決まっている。
「お主はそれでいいのか? ラースロー」
 ラースローはアリアを見ないように茶をまた飲んだ。
「それでこの世に生まれてきて良かったと思えるのか?」
 ラースローの手が止まった。アリアはラースローの目をのぞき込むように続けた。
「私だって人に自慢できるほど楽しい人生を送ってきた訳ではないが、なあ、このまま人にいいように使われたままでは癪ではないか。生きようと思えばまだまだ生きられる。楽しい事だってきっとある。どうだ、私と一緒に行けるところまで行ってみないか?」
 見ないようにしていたアリアの目を、ラースローは見た。
『本気で言っているのか。自分といればアリアとて罪は免れない。本来ならもっと早くここから出すべきだったのが、つい先に延ばしてしまった。アリアの目を見ればまた延ばすだろう』
 今度こそは離してやらねばならなかった。
 アリアは笑っていたが、目は真剣だった。
『本気なら、もし本気でそう思っているなら…』
「まあ、もっと色気があって、香ぐわしい女のほうがいいっていうなら話は別だが」
「そんな女は好みではない」
 冗談に真顔で答えるラースローの少年のような表情に、アリアは思わず吹きだした。
「決まりだな。荷物は少なくまとめよう。お互い必要なものを分けて持ち歩く。その方が途中ではぐれても当分は心配ない」
 旅慣れたアリアが指図する。これではどちらが年上で主人なのかわからない。ラースローも苦笑を漏らした。こいつと一緒なら逃亡も楽しい物見遊山に思えるだろう。
「お主の言っていた私の出会う相手とは、きっとお主のことだったのだ。嫌だと言ってもつきまとってやるぞ」
 アリアは笑って作業に取り掛かった。
 半時間もかからない内に支度は整った。あらかじめアリアが用意していたので、ラースローが必要な書類をもつだけの簡単な作業だった。
馬に乗ってアリアは目をつむった。
『兄上』
 このようなことになってしまったことを、兄エドアルドは許してくれるだろうか。
『シモーナ』
 シモーナの命を賭けた行為を無駄にしてしまった。
『…オリシス』
 目を開けた。道は真っ直ぐ続いている。
 アリアは顔を上げた。静かな決別だった。これが自分の選んだ道なのだ。
「行こう」
 アリアとラースローのふたつの影は、明け方の空に向かって駆け出して行った。
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 サリエルが静かに歩み寄り、天幕をめくった。他のものは戸口に立って、サリエルの行動を息をのんで見つめていた。
「陛下…」
サリエルが膝を折った。頭を垂れて、胸に帽子を抱いた。
「陛下!」
 ミストール夫人がもつれる足で近寄った。
 天幕の中の国王は胸に手を組み、静かに眠っていた。永遠の眠りだった。痩せ細り、髪もまばらで変わり果てた姿ではあったが、髭も髪も顔も全てきれいに整えられていた。衣服は寝衣ではなく、国王としての衣服であったし、白豹の毛皮の縁どりがある純白のマントが胸から下に掛けられていた。頭上に頂いていた王冠は、そばのテーブルに王剣とともに置かれてあった。
 ひとりで逝ったわけではなかった。誰かが死装束を整えたのだ。やはりそれもティスナ以外に考えられなかった。ティスナが看取り、整え、そして姿を消したのだ。
「ティスナ様がこの部屋を出られたのは」
 警護のものにサリエルが聞いた。
「われわれは、明け方前に交替したばかりで…、その間の出入りはありませんでした」
「ではその前の者をはやく連れて参れ」
「は」
 サリエルは部下に小声で命令すると、部下も去っていった。
「ミストール夫人」
 立ち尽くしていたミストールは青い顔でサリエルを振り返った。
「もう一度宮内を改めて貰いたい。誰が居て、誰が居なくなったのか調べて下さい。それが出来るのはあなただけです」
「サリエル殿。まさか…」
「この状況ではなんとも言えませぬ。が、ティスナ様は自ら命を断つようなお方ではない。キアヌ様もご一緒とあらば、おそらく」
 逃亡したのだという言葉をサリエルは飲み込んだ。今はまだいうべきではないが、ティスナに仕えていたこの女性ならば解るだろうと思った。
「何の権限があって、そのような命令をなさいます」
 気丈にもミストールはサリエルを睨みつけた。
「メルキオ殿下に北宮の警護をおおせつかりました。殿下には早馬を放ちました。殿下からの命が届くまでは、わたしの独断で事を運ぶ事が出来ます」
顔を背けたミストールにサリエルはこうつけ加えた。
「わたしとてティスナ様を死なせたくはない。だからなおのこと、行方を掴まなくてはならないのです。それも早い内に」
ミストールは返事もせずに立ち去った。
 サリエルは国王の部屋を出て、中庭に面する回廊から赤く紅葉しはじめた木々を見つめた。
 ティスナを死なせたくはない。その気持ちに偽りはなかった。と同時にティスナの声も蘇った。
「あなたは、あなたの役目を全うなさいませ」
 自分の役目。それはティスナを捕らえることだった。メルキオ側についたのも、国王に対する失意があったからだ。目の前で家族と恋人を惨殺された娘にどのような幸せがあったと言うのだろう。そして娘を惨殺を行った自分の妃に迎える国王に、敵意さえもった自分がいた。メルキオ側につくということは、ティスナをも敵にまわすことであったが、サリエルはできるならティスナの思いを遂げさせてやりたいと思っていた。だからオリシスを裏切る行為もした。
 サリエルは己の手に目をやった。浅黒い腕があった。戦場や日々の訓練での日焼けと思われているが、そればかりではなかった。腕の色はサリエルに祖母と父を思い出させる。
 祖母はティスナと同じ国の生まれだった。アルラと呼ばれた美しい小さな国は、バルツァ家の領地に接していた。貿易が盛んなこともあり、バルツァ家はエタニアの許可なく密貿易を行い、利益を上げていた。領地に入る物資の中には美しい女もいた。そのなかの歌い女が領主であった祖父の目に止まり、妾となって子をなした。それがサリエルの父であった。だが所詮は歌い女と庶子。正妻や親族からは冷たい扱いを受けていた。それでも祖母は何も言わずに耐え、よく幼かった父にアルラの民謡を歌ってやった。穏やかなやさしい笑顔が美しかった。歳をとっても、幼心のサリエルはそう思ったものだ。
 領主が死ぬと祖母と息子は屋敷から追い出された。貧しい暮らしを余儀なくされたが、祖母は父を育てあげた。父が成長したある日、バルツァ家から使いがきた。領主を継いだ父の異母兄が戦地で亡くなったと使者は言った。子もなく、異母姉妹はすでに他家に嫁いでいた。祖父の正妻は、分家に家を譲るよりはと父を屋敷に迎えたのだ。しかし祖母は依然屋敷には入れなかった。
父にはまだ祖母を助けるだけの力はなかった。実力を認めてもらうしか方法はなかったのだと、よく口にしていた。何も解らない無学であった父は必死に努力した。漆黒の髪と幾分黒い肌は、それだけで蔑視の対象になった。民間ならよくある混血だったが、ことさらバルツァ家は格式を重んじていた。義母にあたる正妻の持ちだした縁組みにも何も言わず承諾した。今少し、今少しの辛抱が、いずれ実る。祖父の正妻が死に、祖母を迎えに行った時、祖母は既に体を壊していた。孫である自分を見て嬉しそうに涙を流していた。祖母を屋敷に近い家に移したが、間もなく亡くなった。
 サリエルはその時の父の悔し涙を今でもよく覚えている。
「いいか、サリエル。忘れてはならぬ。わしにもおまえにも、あの美しいアルラの国の血が流れていることを。おまえもこのエタニアに一生身を捧げなければならぬが、心は誇り高い海の民、アルラの者であることを忘れてはならぬ」
父は権力に屈した己を後悔していたのかも知れない。そしてまた、国王の権力に屈し、アルラを攻め滅ぼしたサリエルも。
サリエルは開いた手を握りしめた。どうするか。どうすべきか。
 心の迷いをどうしたら打ち破れるだろう。
「サリエル殿」
 声の主は若い。振り返って、サリエルはエドアルドを見た。部下に早馬を走らせるのと同時にエドアルドをここへ呼ばせたのだ。
「既に聞き及んでいると思うが」
無言でエドアルドは頷いた。エドアルドの瞳は真っ直ぐサリエルに注がれていた。サリエルは大きく息を吸い込んだ。
「ティスナ様を捕らえる」
「は!」
颯爽とエドアルドは踵を返した。この若者こそが真実であることを、サリエルは願った。

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 ミストール夫人はいつものように侍女たちがティスナの朝の支度をするのを待っていた。今朝も朝早くから国王の拝謁を願う臣たちが詰めている。会うか会わないかはティスナの判断で決められている。会わないとなれば、代わりに侍従が対応することになっていた。
 それにしても…。
 とミストール夫人は不審げにティスナの部屋の方を見た。支度が遅い。毎日の陛下の看病で疲れが出たのだろうか。陛下の風邪はそれほど悪いのだろうか。用がない限り、ティスナは国王の部屋から出ることはない。それにあの宮廷に寄りつかなかったラースローが毎日国王の様子を診ている。ティスナにしてもラースローにしても表情はいつも通りで、そこからは何にも測ることはできなかった。
 ミストール夫人は初めからティスナに仕えていた。南方の貴族の娘が国王の側室にあがった。田舎の育ちなので、宮廷での作法を教えてやってほしいと、国王直々の命令だった。後ろだてになるはずの貴族は領主を亡くしたあとは絶えて久しい。もし国王に万が一のことがあったら、ティスナの身はこの上もなく危険にさらされるだろう。ミストール夫人とて、ここ数年のメルキオ殿下との不仲とその意味を知らないわけではなかった。だからといって自分に何ができるだろう。することと言えば、いつもの通りにティスナに仕え、雑事をこなすしかない。
 派手好きで気ままに振る舞うティスナの献身的な看病は、ミストール夫人にとって意外なものに感じたが、ご自身の身を考えれば当然の行為であるようにも思われた。
それにしても……遅すぎる。とミストール夫人が立ち上がりかけたところに、侍女たちが青い顔をして駆け寄ってきた。
「何事です」
侍女達は慌てて説明をするが、肝心なことが伝わらない。どこにもいないとか、探しているとか。
「はっきり申しなさい。一体誰が居ないのですか」
「ティスナ様のお姿が」
 ミストール夫人は早足でティスナの部屋へ向かった。両手で扉を押し開く。
「ティスナ様!」
そこにも青ざめた侍女がひとりたたずんでいた。
「お支度に伺い、声を掛けてもお返事はありませんでした。しばらく待ってもう一度声を掛けても、やはりお返事はなく、ためらった後にお部屋にあがりましたが、」
 姿はなく、庭に散歩に出たのだろうと庭を捜してもティスナの姿はなかった。侍女たちは手分けをして宮の中を捜しまわったが、どこにもティスナはいなかったのだと、侍女達は口々に言った。
「国王のお部屋は」
 ミストール夫人が侍女のひとりに詰問した。
「ですが、あそこは…」
侍女が勝手に入ることが出来る場所ではなかった。
 ミストール夫人は侍女達を後に、国王の寝室に向かった。ミストールにしても勝手に入ることが出来る場所ではなかった。
「ミストール夫人」
 呼び止められて、彼女は足を止めた。
「何かありましたか。取り次ぎを頼んだ侍女の様子がおかしいので」
 こんな時に。とミストールは眉をひそめた。ティスナが会うのをいい事に、連日通いつめているサリエルであった。何の用かはわからないが、ティスナとこの武人が会うのをミストールは快く思ってはいなかった。陛下がご病気である今、ティスナに不名誉な噂が立つのをおそれていた。
「大変です!」
 また侍女が駈けてきた。何という事だ。これではなにかあったと、この武人に知らせているようなものではないか。侍女達の躾をもっと考えねば。怒りを露にしてミストールは侍女を睨んだ。
「騒々しい、静かになさい!」
「キアヌ様のお姿も」
 怒鳴られてもこれだけは言わなくてはというていで侍女が言った。
 サリエルにはそれだけで充分だった。
「失礼」
 サリエルは部下を引き連れて国王の部屋に急いだ。ミストール夫人も後を追う。
 サリエルは思った。キアヌ王子もということは、他にも誰か居なくなったと言う事だ。それはティスナ以外にありえなかった。
 国王の寝室の扉の前でサリエルは一旦止まった。扉の両側にいる警護兵には何も言わず、扉の奥に向かって、低く大きな声で
「ごめんつかまつります」
と言うが早いか、扉を開いた。警護の兵は唖然とサリエルの行動を見ていたが、続くサリエルの部下やミストール夫人を見ると、慌てて制止しようと中に入った。
「バルツァのサリエルでございます」
朝が来ているというのに部屋は暗く、奥の天幕はさらに暗かった。暗い中に体を横たえている影が見えた。
「陛下!」
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 ラティアはティスナが語った物語が、いったい何を意味しているのかわからなかった。いや、わかってはいるが、淡々とした語りがまるで別の世界の物語のようで、目の前にいる女性の半生だとは到底思えなかった。真実だろうか。そう、真実なのだ。この女性の気高さは、ここから生まれたのだ。自分には到底及ばない孤独な戦いが、ティスナを作り上げたのだ。
 ティスナは何を望んだのだろうか。極めた栄光の維持だろうか。キアヌを擁立させることで達成しようとしたのだろうか。
「ティスナ様…」
 違うとラティアは思った。これは復讐だった。国王オルギウスに、この国に対する。
「ティスナ様」
 もう一度声に出して相手を呼んだ。応えはいらない。ただ呼びたかった。与えられた栄華にそのまま身を投じるには、あまりにも無惨な過去であった。忘れようにも忘れられなかったに違いない。心を狂わすには自我が強すぎたに違いない。
「あのように殺される理由は、父と母にはなかった。弟は…、まだたった六歳だったのに」
 ぽつりと聞こえた声は、やはり淡々としたものだった。
 キアヌをもってオルギウスとメルキオの間に不和をおこさせ、エタニアを混乱に陥れる。信頼の厚いメルキオが有利なのはティスナにも解っている事だった。自分の息子に殺されるがいい。それがあの男に一番ふさわしい死に方だった。そうなるはずだった。もう少し時があれば。
「私は母親でありながら、国王の息子でもあるキアヌを愛せなかった。でも…」
 ティスナは立ち上がってラティアに背を向けた。
「でも、あの子の幸せを願っていることに偽りはない。王族ではなく、人間としての」
 ラティアも椅子から離れ、膝まづいた。
「何も知らずに生まれたあの子に罪はない。罪がないと言えば、王女や王子にも罪はなかった。私にとっては、それでも尚、やらなければならないことだった。だから、全ての罪は私が背負う。ラティア。時が来たら、キアヌを連れて行って貰いたい」
「はい」
 出来るかどうかわからなかった。だがラティアにとってもそれがやらねばならない事だった。地図の隣にチャリという音をたてて皮袋が置かれた。
「これは」
「金貨と宝石類。おまえならこの使い道がわかるはず」
 革袋はずしりと重かった。
「時がくれば…」
 それは国王オルギウスの死を意味しているのだと、ラティアは悟った。
「かならず」
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 南の海に面した小さな国には港に適した広い入り江があり、次第に大きな港町へと発達した。陸地から運ばれる様々な品物を船に積み込み、世界中をまわってもっと様々な品物が流れ込んできた。小さな国ではあったが、その港の貿易のおかげで国は豊かに潤っていた。
 暑い日差しと白い壁。道は茶色の石で舗装され、緑の木々が潮風になびく。ジャカランタの紫の花、繁るオリーブの林。住人は庭から道まで花を植え、街は年中鮮やかに彩られていた。陽気な音楽を奏でる楽人達。新鮮な魚を売る商いの声。オレンジの咲く小道や軒に吊るされた干し肉の香ばしい匂い。長い航海のあとに見るその港町は、まるで楽園のように美しく輝いて見えた。

その港にはいくつもの貿易商があり、そのひとつに割合裕福な商家があった。商家には父親と母親と娘と歳の離れた弟がいた。屋敷はそこそこ広く、使用人も船で働く船員も多く雇っていた。父親は外国からの品物を定め、母親は中庭に花を育て、娘や息子は窓から見える海の青さや船の帆の白さを毎日眺めていた。この美しい港が家族の誇りでもあった。
 娘は年頃になり、父親に雇われていたひとりの若者と恋仲になった。父親も母親も娘の恋に反対をするどころか、素直で働き者の若者を息子のようにかわいがっていた。来年ジャカランタが咲く頃、町中の楽人を呼び、小道から大通りから港まで人が溢れかえるような式を挙げようと両親は言ってくれた。
「海に白い帆をはって、世界の国を訪ねるの。私の目は確かよ。いいものを仕入れて世界に広めるわ」
「ぼくは君の帰りを待つしかないのか?」
「あなたは私をいつも見張ってくれなくちゃ。何をするかわからないわよ。無茶をする私を止められるのはあなただけよ」
 何もかもが娘にとって幸福な毎日だった。
 そんなある日、永遠に続くと思っていた幸せが一瞬にして崩れさった。

 北の隣国の軍が国境を破り、港町に押し寄せた。貿易だけで栄えていた国の王は、対抗できるだけの軍備をもたず、無条件に近い形で降伏した。港町の貿易商達は、武器を手に取り最後まで抵抗したが、とうてい太刀打ちできるものではなかった。家や店は兵士達に荒らされ、逃げ遅れた船はことごとく焼かれた。船を焼く炎で、青い海が真っ赤に燃えて見えた。
 娘の家にも隣国の兵士が乗り込んできた。娘がいることがわかったらどんな乱暴をされるかわからない。娘は男装し、髪を帽子の中にたくし込んだ。
 家の部屋の調度品や倉や金銀を運び出す兵士達を、家族は門に面した通りで肩を寄せあいながら呆然と見つめていた。財産を奪われ、船を焼かれ、この先の自分達の行く末を考えるゆとりもなかった。
「そこのもの」
頭上から声がした。 
 誰を呼んだかわからないが、父親も娘も背後を振り返った。馬上に立派な鎖帷子と鎧をつけ、大勢の騎馬兵を従えた人物がいた。隣国の旗を掲げた兵士が馬上の人物の両わきに位置していた。
 馬上の人物は娘が頭からかぶっていた帽子を、槍の先で取り払った。
「あ…」
 豊かな黒髪がこぼれ落ちた。娘の父親が娘の肩を抱き寄せた。馬上の人物は回りに何かを合図したのだろう。数人の兵士が父親から娘を引き離した。
「お父さま!」
 父親は娘に手を伸ばす。母親も抱いていた弟を離して娘に取りすがった。
「どうか、どうか娘だけは」
 家も財産も全て差し上げる。だから娘は返して欲しいと声を枯らして父親は懇願した。
「邪魔だ」
 そう言う声が聞こえた。娘の上着の裾が軽くなった。父親と母親の体が自分から離れていた。顔や腕に何かが飛び跳ねたのを感じた。
「陛下!」
 ひとりの騎士が馬上の人物の前にひざまずいていた。
「王たるものの行為ではございませんぞ」
「これは戦だ」
 そんなような意味を馬上の人物は言った。
 娘は夥しい血を流して倒れている両親を、その状況を理解しようとした。が、何をどう理解していいのかわからなかった。娘の耳に弟の泣き声が聞こえた。
「かまわぬ」
 泣き声が止まない間に、弟の体は槍に貫かれていた。泣き声だけが空中に残って消えた。
「あ…」
 娘は掴まれている腕をもがいて逃れようとした。弟のそばに、父と母のそばに。この手で触れなければ現実だとは思えなかった。
「つれていけ」
 後ろに引かれる。だが、そばに行かなければ。
「ああ…」
 石畳に倒れたままの父と母と弟。
「ティスィーっ!」
 呼ばれて娘は声の方向を探した。恋人がこちらに向かって走っていた。来てはいけない。
「だめよ、リュージャ! 来てはだめ!」
「やめろ!」
 騎士が叫ぶ。しかし、走り寄ってくる武器をもたない恋人は、娘の目の前で、あっけないほど簡単に切りつけられ、そして倒れた。
 娘は目の前が白くなっていくのを感じた。なにもかもが一瞬の出来事だった。

 その後の事はよく覚えていない。気が付いたときはかなりの月日がたっていた。娘はどこかの貴族の屋敷で言葉や教養を身につけさせられ、ある日、もっと大きな屋敷に連れていかれた。たくさんの着飾った男性や婦人がいた。その奥に椅子に座った初老の男がいた。
 初老の男が近づき娘の手を取った。ぞっと寒気がした。男の目は、あのときの、馬上の人物のものだった。取られた手を引っ込めたい衝動が走ったが、意に反して体が言う事をきかなかった。
 導かれるまま歩むと、まわりの男女が次々に頭を下げた。
「ティスナ。おまえは美しい。わしの見込んだ通りだ」
 初老の男が娘に囁いた。それが全ての終わりであり、全ての始まりだった。
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 いつものように朝晩の世話はラティアがしていた。その間、ティスナは殆ど口をきかずただ黙ってラティアの手に任せていた。何も言わず鏡の中の己の目をじっと見つめているティスナの姿は、ラティアに妙な不安を感じさせた。以前のようにあれこれと注文をつけたティスナの方が接し易かったし、またティスナの眩しいほどの輝きに尊敬の念さえ抱いていた。
 国王が伏せている事は知っていた。その看病に疲れている事も。そして得体のしれない緊張がティスナを包み込んでいる事もラティアにはわかっていた。
 しかし、呼ばれて部屋に入ったラティアはティスナの様子に目を見張った。
 ここ十数日間のティスナではなかった。そこにいたのは、初めて会ったときと同じ、他を圧倒する気品まとったティスナであった。
「おまえに頼みがあります」
張りのある声だった。ラティアは頭を下げて続きを待った。
「時がきたら、キアヌを連れて行って貰いたい」
ティスナが立ち上がって地図をラティアに差しだした。
「タニアより南、ずっと南にあるバルツァ家の領地です。時がきたら、幾日かかってもいい、キアヌを必ず連れて行って貰いたい」
繰り返した言葉が強くなっていた。顔を上げるラティア。
「あたしが、ですか」
「そう」
「お供の方々は」
ティスナの首が左右に揺れた。
「行くのはおまえとキアヌだけ」
「ティスナ様!」
ティスナはラティアの手を取り、椅子に座らせて自分も向かいに座った。しばらくティスナは黙っていたが、口元に微笑みを浮かべて物語を語った。
「昔、南の海に面した小さな国がありました」
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